Tシャツのある風景

「これ、どうしようか?」ベランダの物干しから、佐知子の声がとどいていた。
代休をとった日の午後。携帯でニュースを拾い読みしていた時だった。つい、油断して、その声をぞんざいに扱ってしまっていた。

しばらくすると、頬杖をついていない方の頬骨のあたりを、わずかに濡れたものが触った。
子供の頃、一度だけ触れたことのある爬虫類の皮膚に似た感触に、一瞬混乱して「熱っ」と、小さく叫び、その方向に非難をむけると、期待通りのリアクションに満足した佐知子が逆光の中にいた。彼女は両腕をひろげて、見慣れたTシャツをつまんでいた。
白地に紺色のゴシック対で「TASUKI KIZUNA NAKAMA 1989」とプリントされているそれを改めて眺めてみると、あれから同じ時間を経てきた持ち主の体形同様に、だぶだぶとくたびれた様子が見てとれた。
そのくたびれ具合を見かねた彼女が、引退か続投かを、こちらにうかがっていたのだ。

Tシャツのプリントにある1989年当時は、県立高校の陸上部に籍を置いていた。
陸上部とはいっても、同好会に毛の生えた程度のサークル。大会が近づく度に、他の運動部からにわか部員を募らなければならない、継ぎはぎだらけの活動を繰り返してきた。
そんな、いいかげんな陸上部ではあったが、いや、だったからこそ、せめて姿、形だけでも他チームに負けたくない、という姑息な思いが、常日頃からつきまとっていた。
そうした部員の思いが結実したのは、恒例となった新春駅伝大会開会の二週間前のミーティングの時だった。
なけなしの部費をかき集めてTシャツ作り、それを着て襷をつないではどうだろうかと、誰かが言いはじめ、いつになく話が盛り上がってしまったのだ。その場に居合わせた、顧問で、現国担当の村上が、「襷 絆 仲間」という、しりとり風なコピーを考案し、その上、ご丁寧にアルファベットに変換して、デカデカとTシャツの前面にあしらったデザインを、聞く耳無しの独断で即決してしまったのだ。

正月、三が日明けに部室に届いたTシャツの出来栄えに、ことのほか満足した村上は、部員一人ひとりに、一々、自画自賛を付け加えながら、手渡していった。
受け取った部員たちは、ジャージの上からTシャツをあて、原作者に気付かれない目配せで、微妙なニュアンスを、やりとりしていた。
そして、7日の駅伝大会では、出来上がったTシャツを晴れ着代わりに、この部室にいる全員が、各々のスタートラインに臨むはずだった。

ところが、あろうことか、大会当日の早朝、日本中の全ての昭和に、ことごとく喪色の覆いが被されてしまったのだ。
もちろん、それまでの経過も新聞等で見聞きはしていたものの、よりにもよっての念を抱くな、という方が無理な話に思えた。
村上から大会中止の連絡を受けたそのすぐ後、ゴールをはずされたエネルギーが、佐知子に電話をかけさせ、県営競技場に呼び出していた。
先に到着して、例のTシャツと、ランニングパンツに着替え、無人のトラックをジョグしていると、バックストレートのあたりで自転車を降りた佐知子が、巻いていたマフラーをはずして両端を結んでいるのが見えた。彼女は、近づく駅伝ランナーを即席の襷で待ち受けていたのだ。
襷を受け、幾分ピッチを上げたランナーの後方、自転車で追走する佐知子のすぼめた唇から流れるThe Long and Winding Roadが、蒼い春風と上手くハモっていたのを、鮮明に覚えている。

引退か続投か―――、冬の日差しがリビングの奥まで伸びきった頃、答えを待ちくたびれた佐知子は、あくびを噛み殺し、ひろげていた両腕のTシャツを、すっかり持て余していた。
そして、「夕飯、何しようか?」と、言い残して、Tシャツと共に、物干し台のあるベランダに戻って行った。

だぶだぶと、ふやけた頭の中で、The Long and Winding Roadの口笛が、いつまでも、いつまでも、ループしていた。

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